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幸せの法則

「幸せになる○○の法則」とか、「幸せの方程式」とかって、よく人生の教科書みたいな本に書いてありますよね。

「んん?しあわせっ」って読んでみたくなるもんです。でも、だいたいが「人に優しくしましょう」とか「部屋を掃除しましょう」とか、「お金をだいじにしましょう」とかって、考えてみれば当たり前の話ばっかだったりする。それができれば、とっくに幸せになってる。まずは「部屋を掃除するようになる法則」を教えてくれ。

いままでも何度か書かせていただいた、吉田兼好先生の日本最古のブログ「徒然草」。この本には「幸せなひとたち」がたくさん登場します。この人たちが、どのような人たちだったかを見ると、そこに、吉田兼好先生流の「幸せの法則」が見えてくるはずだ。例えばどんなひとたち?

第六十段に登場するのが「芋代に財産を食いつぶす僧都(そうず)」です。彼は大変優秀な学僧だったのが、とにかく芋が大好物で大量に食べた。ひどい貧乏だったので、師匠の僧が無くなる前に大金と家を遺してくれた。でも、この学僧は、それを全部お金に換えてその大金全部を芋代に使ってしまった。彼は、自分の好きな時に食べ、あるいは寝る。しかし気が向けば、猛烈に勉強するなどまったく他人の都合など気にしない男だった。だからといって、人から嫌われるということもなかった。

吉田兼好先生は、彼の事を「徳のいたれりけるにや(人徳が最高の域に達したのであろう)」と評価する。なんででしょうか? ようするに彼は、「他人の目などきにせずにマイペースで生きる」ことのできる人。変人だ奇人と言われても、気にしないで自分を貫けることの出来る人。

そうなんです。「徒然草」に登場する、他の「幸せなひとたち」も、まあ結局は「変わった人たち」ばかり。要するに、奇人や変人なんです。あの「幸せ探求」の大巨匠、水木しげる大先生もおっしゃいます。「変人は幸せである」と。水木先生は、ご自身も世紀の大奇人でありながら、まわりにいる「変人奇人」の観察をずっと続けてこられた。その結論がこれ。「変人は幸せである」です。

一年前に亡くなられた、梅棹忠夫先生。著書「行為と妄想 - 私の履歴書」の中で「櫟社の大木」になりたいとおっしゃっている。つまり、木こりも相手にしないくらい、使い道の無い役立たずの樹になりたいということ。世間のちゃちな価値観などとは無関係に、のびのびと幹を伸ばす「無用の大木」になること。それが最高の幸せということなんです。

最近僕も、やっと水木先生や梅棹先生のおっしゃる意味がわかってきました。そして、本当にそのようにありたいと思うようになりました。