kazuosasaki blog

バートン・フィンク

ブロードウェイでの成功を夢見ていた脚本家が、映画会社社長に見込まれて、ハリウッドに進出する。映画会社で出会う社長も、プロデューサーも、かつて尊敬していた脚本家も、人格崩壊寸前のストレス人間ばかり。宿泊した安ホテルには、とびぬけて「キレた」キャラクター、謎の保険勧誘員が泊まっていた。いつの間にか狂気の都ハリウッドに渦巻く、毒気あふれる乱気流に飲み込まれ、脚本家本人も、ついに抜き差しならない悲劇のまっただ中に放り出される。

コーエン兄弟作品に共通するテーマとは何か。「理不尽におそいかかる運命と闘うおろかなる人間」の姿を描くことではないだろうか。そしてその「おろかなる人間」を、映像を通して造形していく腕前が素晴らしく、「理不尽な運命が」哲学的なメッセージを含んだ、鮮やかな語り口の脚本に託されると、彼らの作品はひとつのマスターピースへと結晶する。スクリーンに不思議な後味を残して。

コーエン兄弟作品は、つねに神の視点のような「高み」から、クールに語られる。神の視点から見れば、一般庶民が生活の中で体験する、悪夢のような出来事も、まるでデパートのカタログの1ページのようなもの。複雑に絡み合った事件、わけのわからない取引、意味不明な人間関係。そうしたものも、神から見ればすべては「はじめから決まった運命」の展開に過ぎないのだろうから。しかも、コーエン兄弟の映画の視点は、同時に映画のキャラクターへの愛情あふれるまなざしでもある。まるで、神がわれわれの愚行を許してくれるように、カメラはどんな悲劇も喜劇も、ただただ冷静に見つめるだけだ。

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ディーキンスのレンズと司馬史観

ところで、この作品からずっと、コーエン兄弟作品の撮影監督をつとめるのは、ロジャー・ディーキンスだ。彼の手によるカメラワークは「冷たいガラスコップの中で小さな炎が燃えている」ような、クールな構図にホットな躍動感をたぎらせる、独特の感覚がある。この作品以前に、コーエン兄弟と組んでいた、バリー・ソネンフェルドからの影響もあるのだろうか。あるいはコーエン兄弟の映像感覚が、ソネフェルドの後の作品に影響を与えているのだろうか。

司馬遼太郎先生の書く歴史小説に流れる歴史観を「司馬史観」と言うらしい。やはりこれも、すでに決まっている運命(歴史物だから当然だ)と戦い翻弄される登場人物を、空中からの「高い視点」から捉え、それを平地からの視点で再構成する手法であると聞いた。有る意味で、司馬先生の歴史小説は、コーエン兄弟の映画と共通点があるということになるのかもしれない。事実の展開をクールに組み上げて、登場人物の心情を熱く語るストーリー。あるものは愚かな考えがもとに悲劇を引き起こし、あるものは全く予想しなかった展開から幸運を手にする。そしてある者は...

後にコーエン兄弟の名前を不動のものとする「ビッグ・リボウスキ」はこの「バートン・フィンク」と同時期に企画されていたものだったらしい。しかし設定上の撮影規模やキャスティングなどの限界から、まずは撮影可能なこの作品が先に作られたという。確かに「ビッグ・リボウスキ」は、この作品の骨格の上に、ジェフ・ブリッジスと、ジュリアン・ムーアという宝石を乗せたのだから、傑作となって当然だ。

そしてどちらの作品にも共通するのが、ジョン・グッドマンという俳優の強烈な存在感。彼の怪演が、どちらの作品にも、大きなインパクトを与えている。彼がいるフレームは、まるで時空間が歪んでしまう。「バートン・フィンク」で彼が演ずる、チャーリー・メドウズ(別名カール・ムント)は、最高に謎めいた危険なキャラクター。「ノー・カントリー」での殺人鬼、アントン・シガー(ハビエル・バルデム)の造形に通じる。