kazuosasaki blog

昏睡キャラクター

夢か現実か / 覚醒か昏睡か

「バートン・フィンク」という作品が描いているのは、現実なのか夢なのか。兄のジョエル・コーエンがニューヨーク大学で映画製作を学ぶ一方で、イーサン・コーエンはプリンストン大学で哲学を学んだという。当然ながら、中国古代思想である「荘子」にも手を伸ばしたことだろう。コーエン兄弟作品の描く世界とは夢なのか現実なのか。あまりの荒唐無稽な展開、強迫神経症的な登場人物、夢なのか現実なのか、ついにその境界線がわからなくなるような、妙なテイストに溢れている。

「ビッグ・リボウスキ」では、主人公デュードが何度も意識を失い、そのたびにアホらしい夢を見る。映画自体がそもそも登場人物の潜在意識なのか、現実なのかわからない、幻惑的なイメージ映像にあふれている。「荘子」にある「胡蝶の夢」のように、「人生とはそもそも夢が本当なのか、それとも現実が本当なのかわからないではないか?」という問いを投げかけているのだ。

気づいて見れば、コーエン兄弟がみずから脚本を手がけた作品群には、必ず「昏睡状態」のように「意識が飛んでしまっているキャラクターが登場する。彼らの存在は、観客に対して「人生とはそもそも夢のようなものではないのですか?」と語りかけているのかもしれない。以下、それらの「昏睡キャラ」をリストにしてみた。
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コーエン兄弟映画の「昏睡キャラ」たち

「バートン・フィンク」(1991) 
主人公バートン・フィンク(ジョン・タトゥーロ)が泊まる「アール・ホテル(Earl Hotel)」にいるエレベーター・ボーイ(といっても老人)は、エレベータの行き先を告げる以外は、会話も動作も全く無い、まるで蝋人形のようなキャラクター。

「ファーゴ」(1996)
ピーター・ストーメアが演じる、ゲア・グリムスラッドというチンピラ。このチンピラは極端に無表情で、映画前半ではセリフも表情の演技もほとんどない。そのため逆に、その本性がわからず、見る者に恐怖感を与える。実際その「本性」は邪悪な殺人鬼。

「ビッグ・リボウスキ」(1998)
主人公デュードと、ウォルター・ソブチャック(ジョン・グッドマン)が、誘拐犯人探しの手がかりを得るためにはいった家で、有名な作家が人工呼吸器を着けられてまさに「昏睡状態」で横たわっている。

「ノー・カントリー」(2007)
あまりにも唐突で非常な暴力行為を、まったく無表情のままに繰り返す殺人犯、アントン・シガー(ハビエル・バルデム)は、何を考えているのか分からないところが恐ろしい。まるでカマキリの頭をクローズアップで見たかのような恐怖を感じるのは、それが人間の思考回路というよりも、本能に根ざした殺戮行動だからなのだろう。

「バーン・アフター・リーディング」(2008)
FBI捜査官としての立場を突然の解雇で失った、主人公オズボーン・コックス(ジョン・マルコヴィッチ)が、「解雇された事実」を打ち明けるのは、世の中で自分を理解してくれるたったひとりの人物、父親だ。しかしこの父親、実は痴呆症なのか、無表情の顔で車椅子に乗ったままであることが分かる。つまり、コックスは、混種状態に近い人物に語りかけていたのだ。

イーサン・コーエンの考えている世界では、もしかするとこういうことなのかもしれない。「覚醒した人間」とは、欲望に踊らされて罪を犯す邪悪な存在。そして「昏睡状態」や「睡眠中」の人間のほうが、宇宙全体の摂理に適合した、平和で理にかなった存在であると。