kazuosasaki blog

グラントリノ

上り坂と下り坂は、ひとつの同じ坂

ギリシャ時代の哲学者、ヘラクレイトスの言葉だ。坂道というものは、それを登る者にとっては難儀なものだが、下るものにとっては都合がよい。同じ坂道を行き来するのに、登るときには文句を言い、下るときには涼しい顔をする。人間とはそういうものだ。自分の置かれた状況を、よくよく考えてから文句を言いなさいよという警句だ。また、この言葉にはこういう意味もあるだろう。上り調子でうまくいっているときは、そうは続かない。今はうまくいっていても、いつかは下り調子になっちゃいますよ。いつまでも調子に乗ってちゃあかんよ。


クリント・イーストウッド監督は、1930年5月31日生まれだから現在78歳だ。この年齢で、俳優として監督として素晴らしい充実ぶりに驚かされる。映画製作の現場なんて、還暦を超えてまでそこで働こうなんて、とても普通じゃない。俳優として、カメオ出演かなにかで、渋い役でワン・シーンさらっていくというような仕事なら分かる。それを、監督業も俳優業も、フルにこなすというのは、さぞかし難行であろう。

ところが、この映画を見る限り、イーストウッド監督は、難行どころか、実に楽しみながら楽々と映画を演じ、撮っているとしか思えない。セリフ回し、体の動きには、まったく無駄が無く、完全に力の抜けきったスタイルなのだ。しかし、それが逆にスクリーンに最大の効果をもたらしている。ちょうど、先日NHKの番組で立て続けに見た、柳屋小三治師匠のように「力を使わず、小声で小声で」といった感じだ。若い役者が力んでも出せないパワーを、名人が最小限の力で発揮してみせる。そんな感じ。

78歳ともなれば、普通の人間の人生は下り坂だ。どれだけの名優であれ、どれだけ才能に溢れた監督であれ、往年の勢いは無くなるはずだ。しかしそれは心の持ちよう。イーストウッド監督は、人生の下り坂を「下り道なので楽ちん」という具合に楽しんでいるのだ。まるで、足の力を抜いて、坂道を惰性で駆け下りていく子供のように。重力に引かれるままに、ころがるような心で作品を作っているように見える。

____________________

ヒーロー像は不滅

主人公、ウォルト・コワルスキーは、ポーランド移民という設定だが、まるで、荒野の用心棒のように、アメリカン・ヒーローのシルエットを形作っていく。ストーリーラインは、同じクリント・イーストウッド監督主演の「許されざる者」と同様。戦いの一線を退いたはずの孤独のアウトローが、思わぬなりゆきから、愛する者への敵討ちに乗り出さざるを得なくなるという筋立てだ。この辺の作りは、見る者に十分な感情的カタルシスを与えるので、見終わったときの満足感も大きい。

舞台が西部劇の荒野であろうが、犯罪にまみれた現代社会であろうが、ヒーローの役割はひとつだ。悪い奴らにお仕置きをして、この世にある「正義」をたたきつけるのだ。相手は悪い奴ほど良い。そしてその悪い奴がやったことが憎らしいほど、ストーリーは盛り上がる。正義の鉄拳をたたきつけるのが「ヒーローの役割」で、憎たらしい奴がやらかす悪事の数々こそが「ヒーローの存在理由」だ。

しかし、今回の「グラン・トリノ」においては「ヒーローの役割」も「ヒーローの存在理由」も、またなかなか新しい設定になっているなあ。主人公コワルスキーの住居は、ラオスからの難民であるモン族のコミュニティーに囲まれた住宅地にある。モン族とは東南アジアに住む民族の一つで、古くから東南アジアに居住しており、ハリプンチャイ王国を建てたことで有名だそうだ。時代に取り残された、ポーランド移民の偏屈ジジイが、よりによって超稀少民族の社会に囲まれている。

妻を失い、息子家族にも見放された、堅物で変わり者ジジイのコワルスキーが、運命に翻弄されて、このモン族の家族の社会に受け入れられて、逆に彼らの愛情に癒されていく。自分の息子や孫娘よりも、ただただストレートに心を開いてくれる、風変わりな移民の家族のために人生最後の愛情を傾けていく。そしてついには、その兄弟の未来のために、みずからの命までを賭ける。そういう男の中の男だ。こんな凄い設定がまだあったとは!映画の脚本設定は無限なのだ。いや、それにしてもやはりやられましたね、これは。原作・脚本は、ニック・シェンクです。

____________________

生きることの坂道・死ぬことの坂道

冒頭で引用した、坂道の喩えだが、実は人間の死生感を表しているとも言える。人間が生まれてくるということは、坂道を登ってきたということであり、死んでいくということは、同じ坂道を下っていくことなのだ。だから死ぬと言うことは、生の一部として当然のことで、何もおそれることは無い。そういう仏教にも通じる考えをも表しているのだ。イーストウッド監督は、この映画で「素晴らしい完全なる死」というものを演じた。

自分の巻き起こした物事に決着を着けて何も問題を残さない。そして愛する者たちに、最大限に素晴らしい未来の可能性を残す。天国で待っている奥さんに対して、再会の時に恥ずかしくないように、大嫌いな懺悔まで済まして。仕立て直したスーツを着て、しっかりと床屋でひげを剃って。この世で最後のタバコに火をつける...

天国で待っている人たちと再会するために。あるいは、もう一度この世界に戻ってくるときのために。

これは、グラン・トリノのコワルスキーにとっての、遺志であったと同時に、これから老境深まるイーストウッド監督本人の死生観を、フィルムに焼き付けたというものではないだろうか。ただならぬ余韻を残し、この映画は幕を閉じるのだが、オープニング同様、ワーナーのロゴは、モノクロ仕様となっていて、まるでイーストウッドの生前葬のようにも見える。

このように自己犠牲の形で死んでしまう主人公に対して、観客はどのように感情移入したら良いのだろうか。「ああ、僕はまだ生きていて良かった」と思うべきか、「コワルスキーのように美しく死んでいきたいものだ」と感じ入るべきか。幕引きをどのように受け取るのか、ちょっと考えさせられる映画だ。こういうのを「余韻」っていうんだな。グラン・トリノは不思議な余韻を残してくれる映画ってこと。

____________________

ところで、コワルスキーの「最後のひげ剃り」をやってくれる親友「床屋のマーティン」役は、ジョン・キャロル・リンチだ。コーエン兄弟の怪作「ファーゴ」で、主人公警察官のとぼけた旦那を演じて、評論家の大絶賛を受けたあの人だ。今回は、まともな感性をもったキャラだけど、やはり映画の大事なところで場をさらっていく存在感は最高。コワルスキーとの「タンカ」のやりとり。
以下が男同士の会話。

[マーチン] Perfect! A Polak and AND a Chink!

[コワルスキー] How ya doing Martin, you crazy Italian prick?

[マーチン] Walts! You cheap bastard! I should have known you'd come in, I was having such a pleasant day!

[コワルスキー] What'd you do? You ruse some poor blind guy out of his money? Gave him the wrong change?