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寅次郎の誕生

ホームドラマの黄金時代を築いた、石井ふく子さんの業績を調べているうちに、「山田洋次×渥美清 TBS日曜劇場傑作選 4作品-ボックス」という、とんでもないDVDを見つけました。いや素晴らしかった。

収録の4作品は、いずれもTBSの「日曜劇場」の枠で、70年代に放送されたもの。時代の勢いというものを感じますが、それとともに、テレビ番組の制作側の人々の矜持というものが画面に溢れています。また、渥美清さんをはじめ、出演者陣の珠玉の演技が素晴らしい。これならこの時代、視聴者が夢中でテレビを観ていたのは、ある意味で当然だったのかもしれません。

このDVDボックスのタイトルに明記されているのは「山田洋次=脚本」と「渥美清=主演」という要素なのだが、収録されている4作品には、制作スタッフの顔ぶれ、出演者、演出テーマなど、共通する点がたくさんある。4作品とは、「あにいもうと」1972年、「放蕩一代息子」(1973年)、「放蕩かっぽれ節」(1978年)、「伜(せがれ)」(1979年)のいずれも名作ドラマです。

TBSの東芝日曜劇場(当時)のシリーズなので、当然なのだけれども、プロデューサー=石井ふく子さんを筆頭に、演出=宮武昭夫、脚本=山田洋次、主演=渥美清というメンバーが、いずれの作品にも参加。俳優陣は、倍賞千恵子、奈良岡朋子、志村喬、宮口精二に加えて、桜井せんり、犬塚弘など、往年のバイプレイヤーもいる。そして、あの太宰久雄。このメンバーは、実に「男はつらいよ」の順レギュラーか、ゲスト俳優格の方々ばかり。

テレビ黄金期のこの時代、TBSに集まった、珠玉の制作スタッフと俳優陣。そして山田洋次さんが脚本家として作り出す、人間への愛情あふれる世界観。まさに良質の「テレビドラマ」という原型がここに完成しているように思える。しかし残念なことに、ここで石井ふく子さんと山田洋次さんがまとめあげた、良質のコンテンツ制作母体は、その活躍の舞台を映画へと移していく。その後、テレビは「トレンディードラマ」や「サスペンス劇場」といった、現代の金銭と物質に溢れかえった世相に同調するだけのメディアへと変貌していく。安心して、良質のドラマを見るという習慣を、いつの間にか、視聴者の方も失ってしまったのでしょうね。

恐れながら、以下、この珠玉のボックスの中から、時代劇2編についての感想を書かせていただきます。

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まずは「放蕩一代息子」(1973年)です。一見して、下敷きにしているストーリーはおそらく、落語でいう「唐茄子屋政談」かと思います。吉原通いの道楽がすぎた若旦那の「徳」が、ついに親に勘当されて乞食となる。そして極限の苦労の果てに、なんとか真人間に戻るという話です。だめな「徳」をはげましたり、怒鳴り倒したりする、叔父さん叔母さんや周囲の人々の人情が、泣かせてくれる名作落語。(よかったらこちらを)

そう思いこんで、この「放蕩一代息子」を見ていると、どうも様子がおかしいぞ。道楽者の徳三郎(渥美清)が、清兵衛(志村喬)に勘当されるところまでは一緒なのだけれども、こちらの「徳」は、金がなかろうが、食い物がなかろうが、平気の平左右衛門。むしろ、乞食仲間や、精神喪失の乞食女(奈良岡朋子)と一緒になって、まるで「上流貴族」のような気分で暮らしている。妹のせつ(倍賞千恵子)が、どんなに心配しようとも、どこ吹く風と、乞食生活を堪能している。浮き世から捨てられても全く平気。

エンディングでこのドラマは、観客に、こう語りかけます。「乞食に身をやつしながらも満ち足りていた徳三郎と、まじめ一筋で店の心配ばかりしていた清兵衛と、どちらが幸せだったのだろうか?」脚本担当の、山田洋次さんは、このドラマにどんなメッセージを込めようとしたのか。普通ならば「この道楽者!」と怒鳴り倒されるはずの徳三郎を、あえて擁護するようなストーリーを、なぜ書いたのでしょうか?

考えてみました。うん。おそらく、こういうことではないでしょうか。

江戸時代の話であれば「遊んでばかりいたら、お天道さまに申し訳ないよ!」という教訓が必須だった。江戸時代にはおそらく、みんな適当に遊んでいたから。しかし、このドラマが放送された70年代は、日本中が仕事や金儲けに夢中になっていた時代でしょ。山田洋次さんとしては「まあまあ、そうムキになって働いてばかりいたら、人間として生まれた甲斐がないんじゃないの?」っていうような、気持ちを込めたかったのではなかろうか。たまの日曜日、TBSの「日曜劇場」を見たサラリーマンに、ふと我に返って自分自身を取り戻してほしい。そんな願いがあったのでは。

映画「男はつらいよ」シリーズにも溢れる、現代人への優しいメッセージの原点が、このドラマにある。それだけでなく、兄=渥美清、妹=倍賞千恵子、という最高のコンビネーションも見ることが出来る。(この番組でも、倍賞千恵子さんが渥美清さんを『あんちゃん』と呼んでいる!)まじめすぎて世知辛い、この浮き世から、つまはじきとなる風来坊。でもなぜか彼らは、お金持ちなんかよりも、よっぽど上品で優しく頼りになる。山田ワールドの実験場の中で、素晴らしい才能たちがぶつかり合って、テレビドラマという世界の可能性に、めいっぱい挑戦している姿がここにはあるなぁ。

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[ ここから後日談 ]
ワニブックスから「放蕩一代息子」の脚本が出版されているのを知って、さっそく注文(絶版らしく、中古で)しました。そして「放蕩一代息子」が下敷きにした、古典落語は「唐茄子屋政談」ではないということが判明しました。以下、この本の脚注を引用します。
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放蕩一代息子: 古典落語「山崎屋」をもとに初代三遊亭遊三が創作した落語「よかちょろ」及び古典落語の「湯屋番」を独自の短編小説として作り変えたものです。注)・・・「よかちょろ節」は、明治21年頃に流行した流行唄です。

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「放蕩かっぽれ節」(1978年)は、「放蕩一代息子」のおそらく翻案で、主人公「徳三郎」のキャラクター造形は同一。こちらも長屋ものの古典落語「らくだ」を下敷きにしたもの。後半になって、やくざの半次が、急に泣き上戸になったり、徳三郎にせかされて棺桶を担がされるなど、シュールで意外な展開もあるけれど、基本は落語の世界がベース。貧乏長屋でつつましく身を寄せ合って暮らす、江戸庶民への優しいまなざしが、山田脚本の基本にあります。

そして、この作品で最も重要な存在が、放蕩息子とヤクザ。どちらも一般常識や社会的価値観とは無縁の人間。社会と完全にズレきっている放蕩息子の徳三郎や、実はファザコン小心者だったヤクザの半次。彼らこそが、実は最もナイーブで優しい心を持った立派な人間なんじゃないの?大金持ちの大家(柳屋小さん)や一般庶民なんてものは、意外に土壇場になるとドライで冷たくて、頼りにならないものさ。山田洋二さんのこんなつぶやきが聞こえてきそうです。

このつぶやきは、1969年に、はじまった映画「男はつらいよ」の基本テーマとして受け継がれていきます。映画での「寅次郎」は、ちょうど「徳三郎」と「半次」を足して二で割ったようなキャラクターではないでしょうか。基本は、風来坊のヤクザだけれども、同時に、心の中には風流で雅な、遊び心を持った放蕩息子でもある。「放蕩かっぽれ節」は、フーテンの寅を生み出すにいたった、山田洋二郎さんの人物キャラクター造形の軌跡を、見せてくれているように思います。「フーテンの寅」は、一朝一夕に生まれたのではなく、渥美清さんと山田洋次さん、そして、石井ふく子さんのような、テレビ草創期に活躍した才能のせめぎあいの中から、結晶のように、長い時間をかけて生まれたものなのだと。

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