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テクノロジーとアートが出会う場所

A/C Magazine vol.3 / 2005年 5月

テクノクラート法王が生まれたバチカン

4月24日、第265代ローマ法王に、ドイツ人ヨゼフ・ラツィンガー枢機卿が就任した。ドイツ人法王誕生は950年ぶりということだが、カトリック保守派の切り札と言われた新法王が、やはりドイツ人であるという出自ばかりが、話題となっているようだ。 ドイツというと、ゲーテや、トマス・マンなどを生んだ文芸大国とは言いながら、重厚長大な技術を背景とした近代的なテクノクラート国家を連想する。 神秘的で精神性の高い宗教界に、ドイツ人法王のイメージは、どこか相容れないものを感じてしまう。

 一方、法王選びの舞台となったシスティナ礼拝堂に眼をやれば、そこにはルネサンスを代表するミケランジェロの「天地創造」が燦然と輝いている。 ルネサンス期の建築や彫刻などの作品群は、今や芸術というカテゴリーに収まっているし、イタリア人のこれらの偉業を、人生を謳歌するロマンチックな夢想から産まれたものと見ることも出来るかもしれない。 しかし実際のところ、あのカトリック教会の尖塔の建造を可能にし、見事なブロンズ彫像の制作を可能にしたものは何なのか? 

 見逃されやすいことではあるが、実はイタリア人こそは、人類史上稀に見るテクノクラートだった。 ルネサンス建築の建造を支えたのは、豊富な力学的な知識、そして巨大な木製クレーン。 人間復興の美を刻んだ彫刻や絵画の傑作は、解剖学的な探求と詳細な科学的な観察に基づいた、深い人間理解の賜物だ。  現代の我々にとって「テクノロジー」と「アート」とは、まるで別のジャンルであり、ともすればお互いに対立する概念として捉えられることが多いのだが、ルネサンスの頃、この二つは、むしろ一体のものとして探求されていた。

見えないテクノロジーは進み続ける

目を移せば現在は西暦2005年、世は春、「IT長者」の時代である。 世間の下馬評をよそに、ライブ・ドアとニッポン放送の仕手戦は、多くの謎をのこしながらも一定の決着を見た。 ルネサンス期のテクノロジーの先端は「彫刻」「教会建築」「印刷技術」を産んだ。 産業革命期には「蒸気機関」「紡績機」「鉄道」が生まれた。 現在、最先端で我々の時代をドライブしているのは「IT技術」である。 「携帯電話」「ブロードバンド通信」「デジタル放送」などのテクノロジーが、われわれの時代の牽引役なのである。

しかも、コミュニケーション技術という総体において、人類史上例の無い大変革期にあると言っても、過言ではないだろう。 少なからずメディアに関係する人間が持つ感想としては「大変な激動期にはいった」ということになっている。 しかし一般的な感覚としては、「日本経済の不調」「世界的なテロ不安」といったものと同様、どこか漠然としている。 「IT革命進行中」という感覚はあくまで「バーチャル」なものにしか感じられない。 それもそのはず「IT革命」は目には「見えない」ものなのだから。

「建築」「飛行機」「道路」などというものは、実在物であり、当たり前のことだが「目に見える」ものだ。しかし、「ブロードバンド回線」「IP電話」「デジタル放送波」などというものや、あるいは「インターネット証券取引」「ネット・オークション」のたぐいは、すべて目には見えない電子的な記憶装置と電磁波の中の「記号のやりとり」でしかない。 実態のないものであり、手でつかまえたり、登ったり乗ったりもできない。 しかし、そのとらえどころのない「IT」の総体こそが、我々の世界を大きく変えようとしているのである。

誰にも予想できない結末

 
それに、ふたたび歴史を振り返ってみれば分かることだが、「進行中の技術革命」というのは、実は、その同時代のひとびとに認識されることは、非常に少ない。 認識されないからこそ「革命的」なのだ。 ピーター・ドラッカー氏の著作に紹介されていることだが、「電話」は発明されて実用化された当時、それをビジネスに使おうなどと考える者はいなかった。 鉄道も、それがやっと旅客事業に使われたのは、実用化の20年後である。 さらに古くは、グーテンベルグの印刷機が、イギリスの現代劇などの「大衆作家」に使われるまでには、100年以上のタイムラグがあった。

これらの歴史的な事実から得られる結論は、我々にとって少し「寂しい」ものとならざるを得ない。 つまりこうした歴史的な教訓は、「同時代の人間には、同時代の技術変革の価値を理解することが出来ない」という事を教えてくれているのである。  さらに言い換えれば、現代の我々には、どう逆立ちしても「IT革命」を理解し、正しく活用することが出来ないのだ。 それを成し遂げるのは、われわれの次の世代であり、それは20~30年後のことである。 実際のところ我々は「IT」を日常的に使っている。 しかし、おそらく「正しくは使っていない」のだろうということなのだ。

ライブ・ドアとニッポン放送との間の論争の中でも、誰もが不思議に思うほど、メディアの未来というものは「見えない」。 あの騒動をウォッチングしていた方で、「テレビとインターネットの将来像が見えた」と感じた人はまず皆無だろう。 それぐらい、先の分からないものなのである。 しかし、ここで落ち込む必要は無い。 「先が見えない」からこそ夢がある。 考えようによっては、我々は、来る「メディア・ルネッサンス」の先駆として、21世紀初頭を生きているとも言えるのだから。

メディア・ルネサンスはこれからかな?

技術的な進歩は、人間世界を常に刺激し続ける。 イタリア人たちが産んだルネサンスは、ギリシャ文明の成熟から、中世の錬金術的世界を通して、人類が蓄積した様々な「技術集成」の上に咲いた、豊穣な花園であろう。 「IT革命」の先にも、そうした人類の収穫期を夢見るのは、あまりにも楽観的か?  これまでも、沢山のアーティストが、メディアの育てた通信技術や画像技術を駆使した作品に挑戦している。 しかし、あまりにも早い技術革新の中で、それらの折角の収穫物が、次々に勢いを失っていくのは何故なのだろうか? 

「IT革命」という、新しい時代の大変革が、実り多き「救世主」となるのか、あるいは新しい紛争や貧富の差を生み出す「厄災」となるのか。 我々には、未だその結末は見えないが、これからも数多くの若者と、沢山の投資家が、「IT」をキーワードとした戦場で、たたかいを続けることだろう。 そして望むらくは、その結末には、「人類にとって二番目のルネサンス」を築いた時代として、歴史に書き残されることを。 

しかし、まだまだその「エンディング」を見ることは出来ない。 この革命的な技術を使いこなし、正しく活用するために、人類は今、さらに精神的な成長の機会を与えられているのだろう。  20世紀に通用したような、「拝金主義」や「排他的効率主義」的なアプローチでは、もうこの巨大な波を制御することは難しいのではないだろうか?   新しい価値観と、それによる新しい人間理解こそが、将来の「メディア・ルネサンス」への道であると信じたい。 ここに鋭くクサビを打ち込み、同時代人の目を覚ますような、豪腕アーティスト、現代のミケランジェロの登場を、私は心待ちにしている。
 

10:Elephant's TalkLinkIcon
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