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消費されていく「現在」という時間

A/C Magazine vol.20 / 2006年 12月

一瞬の永遠

10月末に、東京都写真美術館で開催中だった「HASH I展」(橋村奉臣・作品展)に出掛けた。写真家・橋村奉臣氏は、ニューヨークの広告業界においても高い評価を得ている、商業写真の第一人者である。今回の「HASHI展」を構成する二つの企画とも、その卓越した写真技術に裏付けられた確かな表現力を十分に示すものであった。

Cheers -喜び- 1982年
特に第一部にあたる「一瞬の永遠」は見るものの眼を釘付けにする力にあふれる作品展であった。落下する二つのワイングラスからこぼれるワインが、空中で愛を交わす恋人同士のように舞い踊る。ボトルの口から勢いよく飛び出したシャンパンが、空を駆け上がる龍のように身をくねらせている。商品の究極の美しさをフィルムに閉じこめるために開発された極限的テクニック「高速度(10万分の1秒)撮影」を駆使して実現した、これらの作品には比類無き気品と美しさがあった。

地球上で豊かな生命態を生み出した「水」という不可思議な存在は、今もなお科学者にとって、つきることのない謎を投げかけてくるという。橋村氏が、見事にとらえた「一瞬」には、水という液体が持つ神秘的な力が、ありのままにとらえられているように思う。宇宙開闢以来、四百億年もの時間が過ぎて、やっと地球という「水の惑星」は生まれた。そしてさらに数十億年を経て、われわれはこうして「宇宙を見る」ことができるようになった。この作品展のタイトル「一瞬の永遠」という言葉には、つきることなくくり返される宇宙の創造と破壊のプロセスの本質を、さっととらえてしまうシンプルな強みを感じる。10万分の1秒という、想像を絶する短い時間の中に「永遠」が閉じこめられている。これらの映像は、イギリスの画家であり詩人、ウィリアム・ブレイク(1757-1827)の詩の一節を思い起こさせる。

ひとつぶの砂に世界を
野の一輪の花に天を見たいのなら

手のひらに無限を
ひとときに永遠をつかみなさい

禅、永遠に切り込む一瞬

そもそも「時間」と言う概念は、我々の人間のような高等生物のみが持つ「心」の中に生まれたものであるという。かつて経験した空間を順序だてて記憶する「心」の働きがあって、はじめてそこに「時間」という感覚が定着される。実はカエルのような両生類には「時間」は存在しないのである。カエルには、常に目の前につづく「現在」という瞬間しかない。

仏教の教えでは、時間の観念も持たず、人間のような社会的な価値観も持たない動物たちのことを「仏性がある」というように言う。過去という記憶の憂いもなければ、未来への不安やおののきを持たない彼らは、すでに「解脱」している「仏」なのである。橋村奉臣氏の「一瞬の永遠」における作品には、直感的に「禅的刹那」に切り込んでくる真実の力を感じる。そしてまた、その「一瞬の刹那」を感じ「永遠」という概念に精神を投影するメカニズムは、まさにわれわれ自身の心の中にあるのだろう。禅の世界の一角を、鈴木大拙の言葉から引用させていただく。

「それゆえに、われわれが生きる刻刻が永遠そのものである。永遠はこの一刹那にほかならない、両者は相互に融けあい一つになっている。この完全な相即相入が悟りの内容である。悟りは、永遠箇箇の刹那の無限数の上に伸びてきているものとして受けとるのではない。刹那そのものの中に直にあると見る。刹那刹那がそのままに永遠だからである。」
鈴木大拙「禅による生活」より

物理学の世界でよく耳にする「人間原理」ということばは、ひらたく理解すれば「この宇宙が存在するのは、それを感じ取る力を持つ人間がいるからである」ということだ。宇宙は人間の心の中にのみに、存在するということでもある。無限広大な宇宙空間も、永遠という無限の時間も、すべて私たちの心があるからこそ、感じ取ることができるのだ。逆に言えば、人間が存在しなければ、宇宙などそもそも存在しないということでもある。

しかし現代におけるわれわれの日常生活には、「宇宙を感じる心」など、どこにも見ることはできない。私たちのまわりには、「日常生活」というキビシイ時の流れがあり(この原稿にだって締め切りという瞬間がある)、そして厳然とした空間的な制約がある(私はこの原稿を東京から大阪に送る)。その制約の中を、わたしたちは出来る限りの全速力で駆け抜けようとしている。一分一秒という刹那的な時間を節約し、少しでも効率を上げて仕事をしようと工夫をする。他のだれよりも早く空間を走り抜けて、誰よりも条件の良い契約を結ぼうと夢中になる。だがしかし、いったい何のためにどこへ向かって?現代に生きる我々は、ますます「悟りの世界」からは遠い世界を生きている。私たちの人生を織り上げていく「永遠の一瞬」は、どこへいってしまったのだろうか?

歴史的な一瞬

「HASHI展」とほぼ同時期に、明治神宮の宝物展示室にて開催中の「小堀鞆音と近代歴史絵画の系譜展」にも出掛けた。現代的アートとも言える橋村氏の作品と同列に扱うことは出来ないが、私自身にとっては、なぜかこのふたつの展示会企画に共通する思いが生まれてきた。小堀鞆音(こぼりともと)は、日本の絵画史に残る「歴史画」というジャンルの近代化に力を尽くした画家である。

この企画展では小堀鞆音の「武士」「那須宗隆射扇図」など代表作の他に、田崎草雲「白波紅暾図」、冷泉為恭「天保施米図」(重要美術品)、鏑木清方「慶喜恭順」、小林古径「蛍」、安田靫彦「武内宿禰」などの、そうそうたる作品が展示されていた。いずれも、歴史好きの方にとっては、袖を濡らさずにはいられない、感動的な題材が、歴史的瞬間として描きとめられている。

例えば「那須宗隆射扇図」であるが、平家物語に有名な「那須の與一(なすのよいち)」が、波間に浮かぶ平家群の船群に向かって、いままさに馬を進めるところである。この数秒のちには、日本の歴史物語屈指のスペクタクル・シーンが眼前に出現するはずなのだ。平家軍のしつこい挑発を尻目に、閃光一瞬、與一の放った矢は、みごとに扇の的を射抜くことになる。時は1185年2月18日の夕刻。

このシーンは、数ある「日本人的歴史物語」の中でも、まさに「絵に描いたような」完全さで、我々を魅了する。このシーンは、ただ弓の名手であるというだけの田舎武士、那須與一が、超一級のヒーローに躍り出る瞬間である。この時彼は二十歳になったばかり。そして、この歴史的な「一瞬」は、いずれ滅亡の運命にある平家の姿を象徴する、哀しみの予兆でもある。平家物語のなかでは、平家衰亡の運命を方向付ける決定的な「瞬間」だ。

頃は二月十八日の酉の刻ばかりの事なるに、折ふし北風裂しふ吹きければ、磯打つ浪も高かりけり。船は揺りあげ揺り居ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。 <中略> 與一鏑を放ってつがひ、よつ引いてひやうと放つ。小兵といふ條、十二束三伏、弓は強し、鏑は浦響くほどに長鳴りして、あやまたず扇の要際一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射る切ったる。
平家物語・巻十一の五「那須の與一の事」より

時間というものの不思議さ

テレビに代表される現代のメディアは「センセーショナリズム」の洗礼を受けて実に騒々しい。例えば2006年ドイツ・ワールドカップ開会式などでは、実況アナが「いままさに歴史的な瞬間を迎えようとしています」などと絶叫口調で伝えてくれる。するとこちらも「ほうほう、そうか大事な瞬間であるな」とカレンダーや時計に目をやったりする。2006年6月9日。何年かあとになって、その「歴史的瞬間」を振り返るために日時を記憶しておくためだ。

しかし冷静に考えてみると、この「あとから振り返る瞬間」というものとは、一体どういうものなのか、意外にわけが分からない。「瞬間」という概念の本質、あるいは「時間」という概念の意味について、ノーベル物理学賞・故湯川秀樹博士が説明している文章があるので、紹介したい。
「時刻」とは文字通り「時の刻み目」である。時は無始から無終に向かって連続的に流れる。それ自身としては目も鼻もないものであると考えられる。これに多くの目じるしをつける。そしてわれわれは「時間を測った」というのである。

ところが、これらの場合、われわれが目盛りをしているのは実は時間そのものではなく、むしろ空間である。夜の空に星が目じるしとなってくれるのである。時計の文字盤に等間隔の目盛りがされるのである。時計の測定は結局、空間的な位置の決定に還元される。物理学においては、空間に投影された ー空間化されたー 時間を取り扱っているともいわれるのである。

湯川博士の著書「理論物理学を語る」より

前述のように「時間」という概念は、我々現代人にとっては、まさに一瞬たりとも忘れることのできない存在であり、いつも〆切や納品日などに追われるものにとっては「お金を出してでも買いたい」というほど貴重なものである。また逆に「時は金なり」などと言って、はっぱをかけられる羽目にも合う。それくらい身近な「存在」だ。だがしかし、いざ「時間」とは何か?と問いつめてみると、奇妙なことにその答えは、とても「身近にある」とは言えないほど難解な論理世界に消えていってしまう。

「川の流れ」の速さは、水車の回転を見れば測定することができる。しかし「時の流れ」はどうやって測るのか? 湯川博士が指摘するように、「時間」を直接に測定することは不可能なのである。私が「ドイツ・ワールドカップの開会式の瞬間」として記憶しようとする「一瞬」とは、単に時計という物理的な存在が、空間的位置関係で示したものにすぎない。 

2006年6月9日午後10時(日本時間)という「一瞬」は、我が家のビデオテープ上に、微小な磁気粉末の波紋として記録されているに過ぎない。その瞬間が立ち上がるのは、ビデオを再生した時に私の「心」が動いたからだ。小堀鞆音の作品は「歴史的な一瞬」というものを見事に結晶化している。それは、画家の「心」の業が、丹精を込めた仕事の中に結実し、時を超える「存在」となって今に至っている。

インターネット世界における一瞬

インターネットという世界は、現代人を時間的制約や空間的制約から解放しているとも聞く。キーボードのワンタッチが、一瞬にして地球の裏側の友人のモニターを輝かせる。パリのオペラ座のチケットを、ワンクリックで注文する。ユーチューブのビデオで、見知らぬ国の見知らぬおじさんのメッセージを拝聴する。ネット・オークションで買えないものはない。一夜にして、国家予算なみのマネーが移動していく。キーボードとモニターは、現代におけるわれわれの、スーパーツールであることには違いない。

しかし、そのキーボードとモニターの裏側に広がっている、広大な無限情報世界の真実の姿を見たものはいない。東京オペラシティNTT ICC(インター・コミュニケーション・センター)で先週11月26日まで開催していた「コネクティング・ワールド」の展示会場で、私はあるモニター映像にあきれるほど没入して見入った。それは「goo検索キーワード・ストリーミング」という、NTTレゾナント株式会社による展示であった。この作品は、ただただ検索サイト「goo」に入力されている「検索キーワード」をライブ中継のように表示する。白く輝く画面に「いじめ」「沢尻エリカ」「ライブドア」「市外局番検索」など、まるで関連性のないキーワードの断片のみが、つぎつぎと現れて、そして消えていく。作品の見た目は「小品」だが、この作品が捕らえることに成功した、インターネット世界の闇はとてつもなく巨大で、そして空虚だ。

もちろん、これらの「検索キーワード」たちは、このモニター上に一瞬の間姿を現した後、世界をとりまくネットを駆けめぐり、そしてあっという間に、目的の情報にたどりつく。そしてユーザーは、自分の目的に合う対象を探し当てることが出来るわけだ。しかし、ユーザーはこのことによって「情報を手に入れた」と勘違いしてはいけない。「いじめ」というキーワードが、目や耳を通して、わたしたちの「心」に入ってきた場合は、そこに、イメージや連想というあるパターンの連鎖が生まれる。私たちの心は、概念の関連づけや、自分の過去の経験との照らし合わせといった、判断作業を始めるのである。それに対して、インターネットの検索サイトがやっていることは、単純な「文字合わせ」による照合作業に過ぎない。「い」「じ」「め」の三つの文字コードが、連続して出現する、データのかたまりをリストアップしているに過ぎない。

単純なデータ照合も、もちろん素晴らしい機能である。これによって、どれだけの単純な情報作業から、われわれが解放されることか、その恩恵は計り知れない。しかし、一方で、私たちは、またもや大事な「時間」を失っていく。情報提供者に出会い、知り合う「人間関係」という時間、そして自然界に目をやり、街の空気にふれ、図書館のカードに手で触れるという、体験的な時間は、どんどん減っていく。そしてついには、自分自身の心が、ものごととものごとを関連づけ、意味づけしていくという主体的な時間を、そして「考える」という時間を失う。インターネットによる検索は、私たちの心が体験すべき、時間までも「省略」しはじめている。これを、わたしたち人類のステップ・フォワード(進化)と見るべきなのか、あるいはステップ・バック(退化)と見るべきなのか。私たちと私たちの社会は、その判断を下すほどには、まだネット社会を経験してはいない。

橋村奉臣氏(はしむら・やすおみ)略歴

1945年大阪府茨木市生まれ。アメリカで「HASHI」の名で呼ばれている橋村奉臣は、少年の頃よりほとんど独学で写真を学び、自らの可能性を試すべく1968年に単身渡米。1974年HASHI STUDIOを設立。以来、クリエイティブの水準が極めて高く、かつ熾烈な競争で知られているニューヨークの広告業界において、常に第一線で活躍、その力量は高く評価されている。広告の原点、「商品は主役」であることをモットーに、スティル・ライフの分野で、卓越したHASHIスタイルを確立。加えて1980年代前半より、肉眼では捉え難い10万分の1秒の世界をとらえた独自の技法、「アクション・スティル・ライフ」で一世を風靡し、広告業界において、その地位を不動なものにした。アメリカは勿論、世界の広告代理店200社以上を通じて、世界の優良企業500社以上に作品を提供している。
橋村氏の代表的な作品としては、『エスクァイア』誌50周年記念ポスター「喜び - Cheers」、「フォー・ストーン-Four Stones」、「バッファローの夢- Buffalo Dream」、「宇宙に架かる虹-Rainbow in Space」等。 「宇宙に架かる虹-Rainbow in Space」は、国連大学記念切手発行にあたり作成された限定アートで、後にタイトルが世界7ヶ国語に翻訳され、各国語のポスターが制作された。なお同限定アートには、過去において、橋村氏のほかに、ダリ、ミロ、キース・ヘリング、アンディー・ウォーホルなど美術史に残るアーティストも参画している。

10:Elephant's TalkLinkIcon
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9:Ant's LifeLinkIcon
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8:Bird's ViewLinkIcon
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7:「京都五山・禅の文化展」に思うLinkIcon
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