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kazuosasaki blog

インコのケンカ

_1.pngうちで同居している二羽のボタンインコ。この二羽は、なかなか親密な関係にはならないが、時に機嫌がよい時には、軽やかに鳴き合って睦まじくしている。そうかと思えば、金切り声を上げてとっくみあいもする。二羽の間の感情の変化は鳴き声を聞いていればわかる。つまり、私には、この二羽の間の会話の様空気が読める。

私が帰宅し、玄関の鍵をガチャリと開けたときの「おかえりー!」という元気な呼び声。朝起き出したときの「おお、一日はじまるなー」というときのペチャペチャ言うおしゃべり。そして午後のご機嫌な時間には、このペチャペチャしゃべりが最高潮になって、まるで電車の中のおばさん集団のよう。二羽がばらばらに行動しているときは、時々「ぴっ」「ぴぴっ」と短く呼び合って何かを確認している。

動物は言葉を持たない。少なくとも人間社会における言語のように、はっきりと文法構造を持っていたり、ものに名前をつけたり、紙に書いて記録としたりする言語は持たない。概念の表象といった機能や、意味伝達のための構造を持った、そういう言語は持たないということだろうか。しかし私は、自分の家で同居中の、この二羽のボタンインコを見ているだけでも(いや、聞いているだけでも)そうは思えなくなってくる。

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言葉の破壊力は無限

人間が発明した兵器。地球上の核兵器をすべて起爆してしまった場合、地球何個分かがふっとぶという恐ろしい話だ。衣服にまきつけた少量のプラスチック爆弾というもので、飛行中の飛行機を墜落させてしまうことも出来るという。人間の生み出した武器は、どこまでもその破壊力を増大していくようだ。そこで、オバマ大統領のように「核の無い世界」への提唱となるのだ。しかし世界一の核保有国が提唱する「核の無い世界」にどの国が追従するというのか?

核兵器にくらべれば、人間が日常的にやらかす「口ゲンカ」というものは可愛いものだ。せいぜい、お互いをののしりあって、鬱憤を晴らす程度のものであれば、まあ、それなりのストレスの浄化作用もあり、健康のための効用もあるかもしれない。もともと、人間が使う言葉とは、姿形も無いもの。目には見えず、口から出たとたんに消えていく、はかないものにすぎないのだ。それぞれ気にせず、大いにやりあったら良いと思う。

しかし人間の発する言葉。それは、音となり、紙に書いた文字となり、もうひとりの相手に伝わった瞬間に、何か別なものに変わる。単なる音の波にすぎなかった「言葉」は、それを聞いた相手の中で、ある意味に変わったとき、それは「驚き」や「怒り」あるいは「愛情」や「ぬくもり」といった、新しい感情を作り出す。そして、一度生まれた人間の感情は、いつかその人間の、実際の行為として運動エネルギーとなって発散する。

動物同士の会話も、きっとこのような連動するエネルギーの伝達といった機能があるのだろう。「あっちへいこうよ」「もうちょっとここにいよう」「きもちいいね」「あぶない」といったシグナルは、お互いの行動を呼び起こし、行動の同調を作り上げるのに役立っていることだろう。しかし、相手をさげすんだり、ののしったり、わざと怒らせたり、そんな言語を使うのは、おそらく人間だけだ。

動物同士のケンカというものには、一定のルールがあるという。角や牙を持った動物は、本気でケンカをするとどちらかが死んでしまうため、ケンカのやり方は形式的なものになる。お互いに生命の危険を冒す前に勝負をつけるように決まっているのだ。蛇のように毒を持った種類の動物も、まるでダンスをしているようなケンカしかしない。噛み合ったらどちらも死んでしまい、その種族は絶滅だから。ニワトリも、個体同士が出会う度につつきあうのだが、簡単に勝負をつけてその後は深追いしない。(せまい部屋に、何羽かを閉じこめた場合は、徹底的な殺し合いになるそうだ)