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kazuosasaki blog

地上の楽園(その2)

_2-1.png後になって、実は子午線の基準線0度の裏側には、日付変更線というものがあることに気づいた時は喜びました。日本はどちらかというとこの日付変更線に近い場所にあり、だから陸地としては、世界で一番早く朝が来るということになるのです。「なあんだ、大英帝国と偉そうに言っても、君たちはいつも日本より7時間は遅れているではないか」と意趣返しができたのです。

だから思います。聖徳太子が随の皇帝・煬帝(ようだい)に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 恙無(つつがな)きや」と書き送ったのは、正当な解釈だったと。「日没する処」と言われた皇帝の怒りは収まらなかったと聞きますけれどもね。ある意味当然です。仮にアラスカに住む友人がいたとしても「君の土地は世界で一番最後に朝が来る土地だよ」とかそういうことは、あえて指摘しないほうが身のためでしょう。

人間社会の取り決めについてどうのこうのと比較してもしようがない、ということは分かっていても、あれこれと考えるのが人間の人情というもの。自社と他社の平均年収を比べてみたり、自宅の庭の芝生を比べてみたり、頭の毛の多さを比べてみたり。こうしたパーソナルレベルのことは、今流行の「ポジティブ・シンキング」という思考法を活用することによって払拭することも出来ますよね。でも、世界地図に記されていることや、地理や社会の授業で習うような事まで、払拭してしまう訳にはいかないものです。

ところが、こうした世界の常識や社会の常識に公然と異を唱えたのが、異才バックミンスター・フラー。彼の作ったダイマクション・マップという世界地図は、地球資源を最も効率的に活用するためのもので、人類全体が生き延びていくための知恵として考え出されたものでした。その地図には国境もなければ、なんの社会的バリアもありません。各地を最短ルートで結ぶ送電線は、地球上のエネルギーを最も効率的に人類全体へ配分するはずでした。彼の考案した輸送路を使えば、水資源や鉱物資源、そして食料も、最良の方法で世界中へ配分されるはずでした。

やっと最近になって、世界中で注目されている電力供給技術に「スマートグリッド」があります。しかしこれは、かつてフラーによって提唱されていたアイデアそのものと言えます。地球上の人類社会を、最も効率的に長持ちさせる完璧なアイデアだったのです。しかし、当時大国を支配する指導者たちは、この考え方に共感を覚えることもなく、それどころか全く関心を示さなかったようですね。彼らの仕事はむしろ、常に資源やエネルギーを「独占」することにあるのですから。スマートグリッドのような技術が注目されるようになったのは、まさにフラーの予言通り「地球上の資源が枯渇しそうになって」からということでしょうか。

彼の思想は「宇宙船地球号操縦マニュアル」という風変わりなタイトルの本などに凝縮されてあります。その内容については誤解されて解釈されていることが多いように思います。近年書店においてフラーの著書がどのコーナーに置かれているかを見ると驚きます。確かにフラーの著書をどこに分類するかは難しいのですが、「建築」でも「環境」でも「現代思想」でもなく、「超常現象」や「スピリチュアル世界」などのコーナーに置かれているのを見ると本当にがっかりします。

バックミンスター・フラー関連キーワード
ワールド・ゲーム / ダイマクションマップ

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地球に「上下左右」は無い

_1-2.pngバックミンスター・フラーは言います。これだけ科学文明が進んだ社会において、人間がいまだに国境を巡って揉めたり、西だ東だと言って喧嘩しておってはいかん。宇宙船地球号に乗るすべての人類が、みな同じように人間として認め合う価値観を持ち、全体として生き残っていくための思想を分かち合いなさい。西洋だ東洋だ、資本主義だ社会主義だ、大国だ小国だと、地球を分割していたら人類は全体として生き残ることはできない。こうした警句をたくさん残して去っていったフラーは、まさに「バーズビュー・空を渡る鳥の視点」で、ものを考えていたに違いないと思います。
西だ東だと言っても

バックミンスター・フラーによれば、おかしいのは東だ西だということだけではありませんでした。上も下もおかしいのです。そもそも東京で起立している人間と、ロンドンで起立している人間とでは、すでに「下」という方向が全然違うのです。地球と言う巨大な球体の上に、かなり離れて立っている、この二人の人間にとって、それぞれの「下」は一緒ではありません。彼らにとって「下」というのは、それぞれが地球の中心方向に引っ張られている方向であり、「上」というのはその逆方向にすぎません。だからお互いに自分から見て「東」とか「西」とか言っても、三次元的に見れば、それはまるでバラバラの角度を指しているに過ぎないのです。フラーに言わせれば、国際社会における取り決めと言っても、所詮は一時的で限定的な状況を、人間の限られた感覚で捉えたものに過ぎない、ということなのです。

こうしたフラーの思想に見られる価値観は、古くから東洋に見られる「相対的価値観」に通じるものがあります。老荘思想などでは、現世界の中でどんなに巨大なものも、尺度を変えてみれば小さいし、どんなに長い時間でも無限から比べてみれば一瞬に過ぎないというように、この世に「絶対的な尺度は存在しない」ということを教えてくれます。上や下、右や左、西や東といった方向も、ある特定の条件下で一時的に成り立つものに過ぎないのです。

西洋社会で発展した科学文明においては、すべての事象は観測によって測定し、記録することが可能である、という大前提のもとに世界観が組み上げられています。すべてのものに、目盛りや基準線を設けることができる、という考え方です。それに対して古代中国や、ラテンアメリカのインディアン社会では、世界を心の目で直感的包括的に捉える宇宙観というものが特徴的です。こうした世界観の中には、絶対的な中心とか端だとか、あるいは世界を分ける区分線などというものは存在しないのです。

こうした東洋の知恵も、実は地球規模で「渡り」に挑戦する鳥たちにとっては、当たり前のことだと思います。例えばキョクアジサシにとっては、単に地球の端と端に「白夜」の世界があって、そのふたつの間にあるのは、すべて、ただの中間地点なのですからね。それから、映画の撮影で使われる「バーズ・ビュー」という用語ですが、時にはこんな風にも言いますよ。「ゴッズ・ポイント・オブ・ビュー(神様の見た目)」