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巨大システム社会に埋め込まれた「崩壊」の危機

A/C Magazine vol.11 / 2006年 2月

『利益』という名の幻想

前回の寄稿で、現代社会学・経済学の大恩人、ピーター・ドラッカー氏の以下の言葉を引用させていただいた。「企業人はよく、一般の人は経済を知らないとこぼす。もっともである。…(中略)… しかし、一般の人の無知を訴える企業人自身が、同じ無知という罪を犯している。彼ら自身、利益や利益率について初歩的なことを知らない。…(中略)… なぜならば、利益に関する最も基本的な事実は「そのようなものは存在しない」ということだからである。存在するのは、コストだけなのである。」( P.F.ドラッカー 著 上田惇生 訳 『ネクスト・ソサエティ』より)

マネジメント学の高祖と、ビジネス界諸氏からの尊敬を集めた、ドラッカー先生が「利益などというものは存在しない。」と言い切ったこの文章に込められた意味ははかり知れないほど深い。巨大経済システムが支配する現代社会に生きる我々は、ドラッカー氏の残したこうした警鐘から、我々が日常的に犯してきた過ちの数々に気づかされてきた。ところが、極めて残念なことに、昨年の11月11日、ピーター・F・ドラッカー氏は帰らぬ人となってしまった。ヒトラー時代のウィーンを離れ、怒濤の20世紀を生き抜き、限りなく貴重な人類への助言を残した氏は、96回目となるはずの誕生日11月19日を目前に旅立たれた。

ドラッカー氏の業績は、常に「マネジメント」という経済用語を中心に評価されることが多いが、氏の経営哲学の神髄は、透徹した人間観察と文化史的な考察にある。日本画を中心とした日本文化への造詣も深く、日本的経営(アメリカとは違う!)の神髄の良き理解者でもあった。生前交流のあった、故盛田昭夫氏の武士道精神につらぬかれた経済外交を絶賛し、日本経済の礎を築いた故渋沢栄一翁を常に経済人の理想像として賞賛した。ドラッカー氏が、渋沢栄一氏のような日本経済人の中にみた「理想」とは何だったのか?

経済と道徳の一致

東京都千代田区の常盤橋公園に建つ、渋沢栄一像の台座には、生前渋沢翁が、周囲に繰り返し説かれた「経済と道徳の一致」という言葉が刻まれている。第一国立銀行(前第一勧業銀行・現みずほ銀行)をはじめ、500あまりの会社を設立し、日本経済の基盤を作り上げ、実業界引退後は一貫して教育事業に身を捧げた渋沢翁の信条は、常に「人間社会への誠志」であった。氏の残された著書「論語の読み方」には、儒教解釈の実学的側面を持ちながらも、つねに「人間としてのあるべき姿」の追求に貫かれた、渋沢翁の真摯な精神が溢れている。

ドラッカー氏が、経営コンサルタントとして、GM(ゼネラル・モータース)はじめ、数々の世界企業を成功へと導いて来た手腕については、「経営学=マネジメント」という構図のもとで、とらえられ、さらには「マネジメント=利益技術」という誤解のもとで「もうけの学問」と、曲解される場合が多い。それは、ドラッカー氏の著書が、大概の書店で「中小企業向け・経営指南書」のたぐいと並べられていることからも推察される。しかし、ドラッカー・マネジメント学の神髄は、渋沢栄一氏が示したような「道徳と人間愛」にこそあるということに気づく人は少ない。

物理学を多少かじったことのある方なら「エネルギー保存」の法則というやつをご存じのことと思う。さらに近代物理学の世界では「質量(つまり物の重さ)」と「エネルギー」は同じものであることも分かっている。宇宙にあるすべての「エネルギー=質量」は保存される。つまり、この宇宙全体は「増えも減りもしない!」のである。物質やエネルギーは姿を変える。しかしそれは姿が変わっただけで、本質的には「何も変わらない」というのが、現代物理学の常識だ。

ドラッカー氏の言う「利益というものは存在しない」という警鐘の根っこには実は、現代物理学と同じ、厳然とした科学的事実が裏打ちしている。「利益」というものは、そもそも誰か「独占(ひとりじめ)」した資源にすぎない。誰かが誰かの資産をかすめとり、どこかでだれかの裏をかき、といった「かけひき」上の問題にすぎず、いずれはこの世を去ることになる人間や企業にとって、一時的な「コストの渋滞状態」に過ぎないということだ。

巨大システムにひそむ自己崩壊

ここで今回のテーマ「巨大システム」についてである。世界中の大都市に必ず存在する物といえば「交通渋滞」である。「交通渋滞」というものはなぜ起きるのか?もちろん、交通網の通行処理能力の限界を超えて車が走るからである。しかし実際のところは、この現代科学に時代においても、「いつどこでどのような規模の渋滞が起きるか?」は全く予想できない。これは、いかに観測システムが精緻になろうが「天気予報が難しい」のと同じ理屈である。「交通」「気象」といった巨大で複雑なシステムは、人間の全知能を挙げても予測不能となることが、いわゆる「カオス」理論の中で証明されているのである。

昨今日本で「少子化」問題が真剣に議論されてはいるが、実のところ「一国の人口がいつ増えて、いつ減るのか?」こうした問題も、実は予測が非常に難しい。人口の増減にからむ「ファクター」があまりに多すぎるのだ。(ただし、ある一定期間「減少傾向にある」ということは言えるが。)それと同様に、経済学者が口を揃えて「予測不能」というのが「市場」である。ノーベル賞クラスの経済学の頭脳が作り上げた「株価予測システム」や「自動取引システム」なるものも、実は万全ではない。

さていよいよ、巨大システムによる「崩壊」という、今回の物騒なテーマに近づいた。さきほど例に挙げた「交通渋滞」の例は、実は「巨大システムの崩壊パターン」の一例であり、自然界に見られる「雪崩」や「地震」と全く同質の現象と言える。「えっ」と意外に思われるかも知れないが、実は「自然現象」「物理現象」と「社会現象」には共通するものが非常に多い。「交通渋滞」は実は、ある地域では「システム崩壊」を引き起こすが、その分で他のエリアでの交通を容易にし、それによってシステム全体の不均衡を解消する。山で「雪崩」がおきるのは、地球の重力を受けながら、「山が自分の姿を保つための崩壊」である。「地震」も地殻システムが産みだした、局地的なエネルギーを解放することで地殻全体の崩壊を防ぐ。

こうした自然や社会システムに組み込まれた自己調整的な「崩壊」を専門用語では「自己組織化臨界」と言う。ことほど左様に、世の中にある全ての物は「崩壊」する。「形ある物すべてこわれる」。テーブルの上の「塩の山が崩れる」のと「山が雪崩で崩れる」のは、実は全く同じ事。問題は規模である。「塩の山」が崩れても、人身事故にはならないが、「雪崩」は人の命を奪う。例としては不謹慎かもしれないが、経済システムの崩壊もこの理屈の同軸上にある。小さな地域社会の経済破綻がおよぼす被害と、巨大なグローバル経済システムの引き起こす悲劇とでは、その意味がまるで違う。後者はへたをすると、一国の運命をも左右する。

かつての証券市場と同様に、現代においても「取引」の決断は最終的に「人間」である。トップクラスのトレーダーは、実は分析システムの使い手ではなく、「自分の本能を信じる勝負師」の側面が強い。彼らは、最終的には機械がはじき出すデータなどは、最終判断の材料にしない。動物的な勘と、磨き上げられた観察能力を駆使して「市場の崩壊」から逃げるすべを知っているという。彼らは一般トレーダーのように「雪崩」には容易に巻き込まれない。

コンテンツの保存法則

そして今回の「ライブドア事件」である。「ITとメディア」業界の中枢で起きた巨額な不正取引という「きわめて現代的な」事件のように見えるが、しかしその本質はこれまで何度も繰り返された「経済雪崩」の一パターンなのかもしれない。1月24日朝日新聞に寄稿された、宮崎学氏が指摘するように、1949年の「光クラブ」事件と良く似た「利益至上合理主義」の当然の帰結であるとの指摘が説得力を持つ。本稿冒頭で紹介したドラッカー氏の文章にあるように「もともと利益とは存在しない幻想である。」幻想であるからこそ「利益」というものは破壊的な力で人間の価値観を倒壊させてしまう。

今回の事件に先立って、昨年末には、楽天によるTBS買収がメディア界を震撼とさせた。買収による楽天のねらいは「TBSのコンテンツ」であるという、まことしやかな説明を真に受けた人はあまりいないとは思う。しかし「放送と通信の融合」によって「コンテンツの価値は」本当に「倍増する」のか?ここにも「利益」と同様に幻想的、希望的価値観による誤解が存在しているように見える。コンテンツを制作するための「コスト」そしてそれを伝送するための「コスト」は存在する。しかしそれによって生み出されたコンテンツそのものは「増えも減りもしない」。二次利用、再放送といった行為も、あらたな「コスト」の交換に過ぎないのかもしれない。

このへんの事情をはき違えると「放送と通信の融合」は、あらたなメディア市場を生み出す魔法の呪文のように使われ始める。冷静に情勢を見極め「放送」の本質と「通信」の本質を確実に掴みながら、コンテンツの受益者の利益を中心に事を進めなければならない。さもないと「融合」という呪文の下でコンテンツが、コンテンツホルダー同士の単なるマネーゲームの材料にされてしまう可能性がある。
ここで改めて確認するまでもないが「経済」という熟語の語源は「経世済民」すねわち「国をおさめ、人民の生活苦を救う」の意である。渋沢栄一翁の言う「経済と道徳の一致」とは、自ずから経済活動の目指す、人の道を示している。我々現代社会に生きるものは、こうした基本ルールをよほどしっかりと心に刻まなければ、「経済雪崩」の危機は容赦なく近づいてくる。とても偶然とは思えない日付の一致が、私の胸を打った。渋沢栄一翁は、昭和6年11月11日に91歳で亡くなられている。ピーター・F・ドラッカー氏の命日と同じ11月11日である。神様は、人類の経済活動に献身し、そして警鐘を鳴らし続けた巨人二人を、同じ日に召されたのだった。

メディア・ルネッサンス待望論といいながら、経済的側面に紙面を使ってしまったが、メディア界を動かしている時代の力も、実は経済的なパワーゲームに支配されやすい現実がある。改めて偉大なる先人二人の業績をたたえ、冥福を祈り、自戒の念を深めたいと考えた次第である。

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