奇跡の配材
たった8年間で、ザ・ビートルズが生み出した傑作の数々。ポップミュージックの奇跡だ。ジェフ・エメリックの書いた「ザ・ビートルズ・サウンド」を読んで今思う。この奇跡は、まさに「人智を超えた」ところから生まれたのだと。すべてはまさに「天の配材」だった。
ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人がメンバーとして出会ったということも「天の配材」なのだけれども、彼らがEMIと契約した時に、その担当プロデューサーがジョージ・マーティンであり、録音エンジニアがノーマン・スミス。そしてジェフ・エメリックが見習いとして控えていたというのも、大変な「天の配材」だったと言えよう。
特に、ジョージ・マーティンの担当していたレーベルは、別にトップ・アイドルを発掘するレーベルでは無かったというところが面白い。彼の担当レーベルは「パーロフォン」といって、ピーター・セラーズなどのコメディレコードを手がけるものだったのだ。つまり、EMIでは、ザ・ビートルズは、特に売れることも期待されておらず、とりあえず手を挙げたジョージ・マーティンにまわされたってことだ。
しかしこの配材こそが、その後の怒濤の進撃の、まさにスタート地点となる。ザ・ビートルズが持っていたエネルギー溢れる音楽に、ジョージ・マーティンの豊かな音楽的知見や、ウィット溢れるアイデアが加わることで、世界最高のヒット曲が生まれ続けたことは、周知の事実だ。
ジョージ・マーティンは1955年、彼が29歳の時にパーロフォン・レーベルの責任者となった。ここでの6年の経験を経た円熟期の36歳となって、彼はリヴァプールからやってきた4人に出会う。誰が計画したことでも無く、当時は誰も気づかなかったことなのだが、4人とジョージ・マーティンの出会いは、まさに完璧なタイミングと場所で行われたのだ。ジョージ・マーティンは、確かにコメディに続いて、ポップミュージックを手がけたいとは思っていたのだが、まさかそこに「ザ・ビートルズ」が転がり込むとは...
ジョージ・マーティンは、著書「ビートルズ・サウンドを創った男」の中でこう語る。「もしあの時に私が、このグループには可能性が無いと却下していたらどうなったか。おそらく彼らは、まったく世に出ることの無いままに終わったことだろう」と。神様はこのようにして、私たちのまったく気づかないところで、静かに「奇跡的な配置」を用意してくれている。そしてその配置は、突然に嵐のようなエネルギーを生み出しはじめる。
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Photo by wikimedia : The Beatles as they arrive in New York City in 1964 / Date= February 7, 1964 /Author= United Press International