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映画という生命体

生命は単なる分子なのか。原理的には説明できるが、おそろしいほどの複雑さで協調して働く分子なのか。それとも、さらに何かが含まれるのか。われわれにはまったくわからない。(中略)生命体は分子とそれらの相互関係にほかならないとされる可能性がある。分子の謀叛が「リア王」を想像したとすれば、それはこの世界を魅惑的なところにする可能性のあかしだからだ。
(フィリップ・ボール著「生命をみる」 p.40)

ヒトのDNAが解析されるようにまでなり、生命現象という摩訶不思議なものが、タンパク質のダンスとして説明できるかもしれない時代となった。さらに、もしかすると分子そのもの絡み合いの中に、生命というものが潜んでいるのではないか、という考え方もあるようだ。しかし、上記の文章につづけてフィリップ・ボール氏が述べるように「分子生物学のむずかしさは、同時に多くのことが進行するところから生ずる」。生命体の内部でのタンパク質の働きを知ったところで、生命そのものの真実を捉えたことにはならないのだ。

生命とは、各レベルに分かれた様々な現象が、複雑にからみあい協調しながら実現しているものだ。臓器レベルでみれば、まるで各器官が、自動車や電機製品の部品のように働いて見える。それをタンパク質レベルにまで拡大して見れば、まるで、巨大部品工場のラインのようでもある。遺伝子、DNAレベルで見れば、それは、インターネット空間を走り回るデータの渦だ。しかし、これらのどのレベルで観察してみても、それは生命という複雑な現象の一断面を見たにすぎない。


詩人エミリー・ディッキンソンは、自然と生命について以下のように表現した。

自然はわれの知るもの
されど語る術なし

(フィリップ・ボール著「生命をみる」 p.39)

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映画の持つ複合的構造

映画というものにも、生命に似た何段階にも重なった複合的な構造がある、ということに気づいた。大きなレベルで言えば、ストーリーや映像、俳優の演技というものが目につくのだが、その下の段階には、こまかなセリフのニュアンス、俳優のちょっとした表情などがある。そしてそれらは、映画製作スタッフの力量や、仕事ぶり、スタジオ環境、はては、スタッフが食べていた弁当の質までが影響しているのかも知れない。

映画評論では、良い映画や悪い映画というものについて、監督の力量、役者の演技、脚本、原作、美術などの、各要素が個別に語られることが多い。プロの評論である以上当たり前だ。ただただ感動的な映画だった。なんて述べていてもしかたがない。しかし、こうして改めて、映画という複合的な芸術を、生命という、やはり複雑な現象に比べてみると、実に考えさせられるものがある。単純にフィルムに焼き付けられて、流れていく映像と音楽。それは、まるで生命のように捉えようのない何かだ。

DNA Animation : Brian0918