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アバター、3D映画の将来

デジタルシネマや3D映画の現状に詳しい、北谷賢司先生が、10月頃に「アバターが試金石となるでしょうね」というふうにおっしゃっていた。私はそのお話を聞いて、やや3D映画ブームの到来に期待しつつも、ちょっと懐疑的なニュアンスも感じたものだ。

立体映画は、1950年代「恐怖の街」「肉の蝋人形」など、長編や短編をあわせて100本以上の立体映画が作られたらしい。しかし、数年のうちに、その流行は急速に衰退する。当時の立体映画が作られた理由は、テレビ受像機の普及による、観客動員数減への対向のためという消極的なものであったせいだろうか。あるいは、まっとうな演出による作品が少なかったため?
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さて、今回の「3D映画ブーム」なのだが、ハリウッドでは、すでに数多くの新作が「3D」方式で撮影され、また旧作のデジタル処理による「3D変換」によるリバイバル企画も、沢山生まれつつあるということだ。本当にこのまま、3Dムービー時代が到来するのだろうか?

本日、TOHOシネマ 六本木ヒルズで「アバター」を観た限りで言うと、正直なところは「ムリではないか?」という感じがある。実のところ、3時間近くある上映時間のうち、後半の1時間しか観ていないので、全くあてにはならないのだが、とりあえず本日時点では「3D映画が本格潮流になるのはムリではないか?」正直な感想である。この感想には、おそらく私という個人の、視力そのものや、立体視処理能力(脳力?)など、体力的な限界が影響しているには違いないのだけれども。

一番の思いとして残ったのは、あれだけの大虐殺シーンをなぜ、大迫力の3Dで観なければいけないのか、という疑問だ。ただでさえ、海兵隊兵士の体に弓矢が突き刺さるシーンなど直視したくないのに、それが立体で迫ってくるというのはどうなのだろうか。シューティングゲームの悪影響を心配する教育委員会ではないけれども、こんなに大迫力でドンパチやる3D映像には、無視できない心理的悪影響があるように感じる。

それにしても、パンドラという衛星と、その先住民コロニーは、まるで、アメリカの巨大な軍事力の前に倒れていく未開国のように描かれている。米海兵隊のヘリコプター奇襲攻撃にさらされる、ソマリアのモガディシオの住民。あるいは、騎兵隊に蹂躙される先住民のインディアン部族。前半のストーリーを見ていない私にとって、部分的に切り出された後半の戦闘シーンは、どう見ても、文明人が未開人を、圧倒的な優位の武力を使って掃討し蹂躙していく姿に重なる。

しかし、さすがそれは映画。人類の歴史で起こった出来事とはまるで逆に、衛星パンドラの住民たちは、反植民地闘争に勝利することになるようだ。(最後まで観ていないので推測)このストーリーは、3D映画を楽しみに来た観客にどのようなメッセージを残すことになるのだろうか? 大迫力の殺戮映像が残すメッセージと、映画が伝えようとしている内容とが、釣り合っていないので、観客は少なからず混乱した意識をひっぱることになると思う。
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これだけの大作SF作品で、しかも3Dという力業は、やはり名匠ジェームズ・キャメロン監督ならでこその偉業。しかし、できることならば、ジェームズ・キャメロン監督には、例えば「インディアンの闘士・ジェロニモ」を克明に残す、正当派歴史映画のようなものこそ撮って欲しいな、と思う。デビット・リーン監督の作品のような超大作で。歴史に残る名画であるためには、別に3Dである必要は無いのでは?3Dにするためにかかる余計な予算は、ストーリー設計とロケ撮影に使って欲しいな。

もしかして、こんなことを書いてしまう自分は、現代の「第三次立体映画ブーム」についていけない、旧感覚オヤジにすぎないということ?

大口孝之氏による3D映像解説 >>>