kazuosasaki blog

敵を欺くには身内から

長篠の闘い引き続き「デーヴ」と「影武者」を比べてみたい。

<キャスティング>
「デーブ」で主人公を演ずるのは、ケヴィン・クライン。「影武者」は仲代達矢。どちらも「ひとり二役」という難行を演ずるとしたらうってつけの名役者だ。ちなみに、ケヴィン・クラインは、「ワイルド・ワイルド・ウェスト」というおバカなSF映画でも、大統領との二役をやっていた(替え玉ではなく純粋にひとり二役)。仲代さんもどこかで、二役やってないかなあ。そういえば、NHKの大河ドラマ「風林火山」では、武田信虎役もやり、名優仲代さんは、冷血漢の役から情熱溢れる正義感まで、なんでも出来るスターだもの。二役どころか、どんな役でもこなすマルチプレーヤーだ。

<調子に乗る替え玉>
ケヴィン・クラインの替え玉も、仲代達也の替え玉も、周囲の人物の心配をよそに、それぞれ自分本来の持っていた才能を「破れかぶれの体当たり」という状況でさらけだし、いつの間にか「本人以上に本人」のように化けていく。このへんのくだりも、ふたつの映画の魅力だが、よく似ていると言えるかも知れない。「あわやばれてしまうのでは?」という観客の不安を、どちらの映画もうまくあおって、中盤を盛り上げる。二人の替え玉は、どちらも、想定外の対応や、開き直ったぶっつけ本番で、こなしていく。究極の事態に投げ込まれた人間の強さというものが、このストーリーの軸だ。

<見抜くのはやはり奥様たち>
「デーヴ」の奥様つまりファースト・レディであるエレン・ミッチェル(シガニー・ウィーヴァー)は、はじめ意外にあっさりと欺されてしまう。デーヴが大統領の不倫事件について、素直に謝ったのでうっかりという設定。だがその後、デーヴのほんのちょっとした動作で、異変に気づいてしまう。「影武者」でも、替え玉の機転とユーモアに笑わされているうちに、欺されてしまった奥方たち(倍賞美津子、桃井かおり)だったが、愛馬から落馬という思わぬ事態で、偽物であることをするどく見抜く。やはり、夫の異変に気づくのは奥様でしょう、という点も、ふたつの映画には共通している。

<替え玉の運命>
しかし「デーヴ」と「影武者」では、同じ替え玉でも、その先の運命には、まるで違う展開が待ち受けているのだ。

「デーヴ」では、主人公は、まさに理想的な大統領を演じていく。奥様に嘘がバレた後も、彼女を味方につけて、彼の活躍はいよいよ全開となっていく。陰謀渦巻くホワイトハウスで、首席補佐官や国務長官までも相手に回し、誰も出来なかった「善政」を実現していくのだ。まさに、全アメリカ人が喝采するような施策を。廃止寸前の孤児院を救い、ホームレスの子供たちの住居を確保する。全アメリカ人の完全雇用を保障する。

まさに、映画における、アメリカン・ドリームの実現だ。監督のアイヴァン・ライトマンや、脚本のゲイリー・ロスも、これが「映画」という虚構であるということを十分に楽しんでいるように見える。ここからはオチに関わるので、詳述はできないが、映画としては完全なるハッピー・エンドを用意して、観客に明日への希望と夢を与える作品に仕上げられている。名だたる政治家や、俳優(アーノルド・シュワルツェネッガー)、映画監督(オリバー・ストーン)らが、実名の役で登場するというのも、逆にこの映画が徹底した「虚構」であるという安心があるからだろう。ところで、この映画でのシュワちゃん、すでにカリフォルニア州知事になることを予見させるような風格があるね。余談ながら、脚本のゲイリー・ロスも[警察官その2]という役で登場。

替え玉であることが発覚し、追放されてしまった後の「影武者」に待ち受ける運命は過酷だ。それよりも「影武者」という「主人」を失った武田家の運命こそが悲劇である。虎視眈々と武田家の領地をねらう戦国大名は、信玄の死を知るやいなや、一斉に武田家の殲滅をねらう。天正三年春、信玄の息子勝頼が率いる全軍二万五千は、長篠に向う。五月二十一日、信長、家康の連合軍の鉄砲という新兵器に、伝統を誇る武田の「風林火山」の陣立てはたちまちくずれていく。武田家の滅亡である。

____________________

「デーヴ」と「影武者」、エンディングについてはかくも真反対である。かたやユートピアの実現という、夢のハッピー・エンド。かたや歴史的事実とはいえ、武田家の全軍滅亡という過酷な現実。「替え玉」という仕掛けを主軸にストーリーを構成する点で似ていても、実際はこのふたつの映画、その立脚点とメインテーマにおいては「まるで違う」映画であったという結論になる。

同じ「王子と乞食」方式というプロットを採用していて、また基本的な舞台設定が酷似していても、映画というものは全く「別な作品」になり得る、という見本と言えよう。別な味方をすれば、映画というものの本質は、最終的なメッセージによって決まるもので、舞台設定やプロットの類似性は関係ないということでもあろう。