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カーリング作戦要務令

「カーリング女子日本代表のチーム青森が、1次リーグで3勝3敗で並んでいたスイスと対戦して敗北した。ミスを連発し、阿部監督も意図が分からないと首をかしげるようなショットを放つ場面もあったという。 日本は2エンドを残して、力尽きた。第8エンドで2点を奪われ、4-10。スキップの目黒は、相手選手に握手を求め、ギブアップの意思を表示した」[*1]

じっくりと勝負を見続けることができない性格なので、早朝のオリンピック中継を見ながらも、この試合の展開がいまひとつ読めなかった私。しかし、NHKのアナウンサーと解説者の話を聞いていると、この試合では、スイスチームのほうが一枚も二枚も上手であったということは良く分かりました。とにかく、スキップ(主将)のオットー選手のショット成功率が94%であったとか、ミスの目立った日本に比べて、スイスチームのプレーの精度の高さが目立ったと聞きます。

一方で「作戦の進め方」など、経験の差に言及する評論も聞きます。「氷上のチェス」と言われるカーリング、試合の進め方、その組み立てがものを言うのですね。「日本チームは、ここで点数を取ったというよりも、『取らされてしまった』ということ」という解説者の言葉が象徴的でした。スイスチームは、ショットが安定している上に、精神面でもしっかりと落ち着いていたようです。着実に「作戦を遂行している」というような、選手の自信に溢れた表情が強く印象に残りました。

たった8個のストーンですが、その配置は試合ごとに千変万化、ゲームの展開にはあらゆる可能性があるでしょう。冷たい氷の上で、世界レベルでの緊迫したゲーム。その複雑な展開を読み、冷静な判断を続けるというのは、どれだけ難しいことかと思います。

本日、全試合が終了。スェーデン(金)、カナダ(銀)、中国(銅)、スイスは4位、日本は8位という結果でした。日本に苦杯をなめさせたスイスを、三位決定戦で下したのは中国。初出場ながら堂々の銅メダルを獲得しました。唐突ですが、その中国には、「孫子」という歴史的名著があります。古来からの戦闘に関する英知をまとめた、兵法の決定版です。戦略的スポーツである、カーリングにおいても、作戦要務令集として、役立っていたのではないでしょうか。

[*1] 2010年2月24日 日刊スポーツ紙面より抜粋
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敵の崩れを待つ

現代に伝わる「孫子」の原典が成立したのは、春秋時代というから、今から二千年年以上前のことです。しかし、その教えは現代における戦いにも十分に通用するアイデアに満ちているのです。第4章にあたる「形篇」では、攻めと守りの形の作り方について解説されています。「形篇」で展開される、理論的でクールな戦術論には、現代人の眼を開かせるに十分な、独創的な視点があります。

「孫子曰く、昔の善く戦う者は、先ず勝つべからずを為して、以て敵の勝つべきを待つ。勝つべからざるは己に在り。勝つべきは敵に在り。故に善く戦う者は、勝つべからざるを為しあたうも、敵をして勝つべからしむあたわず。故に曰く、勝は知るべくして、為すべからず、と」[*2]

この文章は相当わかりにくいので、山本七平氏による現代文訳も紹介します。「孫子は、次のように言う。昔、巧みに戦った者は、まず不敗の態勢を立て、その上で敵に勝てる時期を待った。敵が自分に勝てないのは、この不敗の態勢の故だが、一方、自分が敵に勝ちうるのは相手の態勢による。そこで巧みに戦う者でも、相手が自分に勝てない態勢を取ることはできるが、自分が勝つことをできるように相手をしむけることはできない。そこで、敵に勝つことを知ることはできても、勝を無理に作り出すことはできない、と」

自分の部下には命令は出来るが、敵の部下に命令することは出来ない。あまりにも当たり前の事実から、孫子は論理を展開していきます。自分が勝てる態勢(相手方の守りに不備があって、こちらから攻め込めるチャンス)を、相手に命令して作らせることは不可能だ。しかし、自らの部下に命令して、常に「不敗の態勢」をつくることは出来る。つまり「自分のチームに命じて不敗の態勢をとればよい」ということです。この結論だけを聞くと「なんだそんなことは分かっている」という気になりますよね。しかし、孫子の説く、本当のポイントは別の所にあるのです。

[*2] 「参謀学『孫子』の読み方」 山本七平著 / 日本経済新聞社刊

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敵に命令できるという錯覚

「形篇」において、孫子が強く警告していること。それは「司令官の油断」です。司令官も人間。そして、人間とは常に「希望的観測」に基づいて行動するものであり、つい、楽観的な判断をしてしまう。そのことを強く戒めているのです。

日本航空の経営陣は「国がJALを見捨てるはずがない」と考える。ソニーの技術者は「アップルが携帯音楽プレーヤーで成功するはずがない」と考える。老舗デパートの企画担当者は「楽天市場が、デパートの市場規模を上回ることはない」と考える。年金受給者は「国民年金が破綻するはずがない」と考える。

今思えば、いずれも「あまりにも楽観的な予測」でありました。しかし、実際に人間とはこのように考えるものなのです。国家防衛において「あの国が攻め込んで来るはずがない」と考えたり、企業経営において「あの会社が攻め込んで来るはずがない」と決めつけてはいけない。それを繰り返し諭しているのが、孫子「形篇」です。国家にとっての「平和の時代」、企業経営者にとっての「安定の時代」こそ、常に「不意の攻撃に備えて、不敗の形を作っておくこと」の重要性が説かれているのです。

「参謀額『孫子』の読み方」の中で、山本七平氏は「ナイロン」による繊維産業の敗北を、希望的観測による失敗例としてあげています。太平洋戦争前までは、日本の絹製品は世界最高品質の繊維であり、絹の輸出高は日本政府の総予算に匹敵するほどでした。だから、アメリカでナイロンが発明された時にも「なあに、ナイロンじゃあ。何といったって絹にかなう繊維はないさ」と、みな安穏としていたのです。こうした楽観論のため、その後の日本の繊維産業は壊滅的な崩壊をとげることになります。せめて関税措置か輸入制限くらい検討しておけば。

ナポレオン戦争で、最終的にナポレオンが、ロシア遠征(1812年)に敗れたのも、同じパターン。 ロシア軍を率いるクトウゾフは、徹底して、ナポレオン軍に包囲殲滅されないという戦略を固守したというのです。首都モスクワの防衛でも、ボロジノの決戦でも、陣地死守などにはこだわらず、平然と退却しては「不敗の形」を守り続けた。まさに「勝ち易き」状態になることをじっと待つ。この戦いを制したクトウゾフこそ、「善く戦う者」でありました。[*3]

将棋やチェスに弱い私には分かります。「こんなところには、絶対相手は打ってこないだろう」という楽観的想定、そしてその想定を超えた攻め方をされた時のパニック。冷たい氷の上での極度の緊張。カーリングなんて、私ならば試合開始早々に、完全に「凍りついて」しまうことでしょう。

勝敗にかかわる緊張も、精神的パニックも乗り越えて、平然と、勝つ局面まで耐えること。これは、スポーツだけでなく、企業経営においても、人生においても重要な能力かと思います。カナダとの死闘を制した、強豪スェーデンは、実は平均年齢40を超えるという、兄弟家族で構成する熟年チーム。スキップのノルベリ選手は43歳の「肝っ玉かあさん」なのだそうです。フィギュアスケートでは、ティーンが活躍中だけど、ながーい人生の上り下りの経験が、ものを言うスポーツもあるんですね。
[*3] 作家・児島譲氏の指摘