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WEBマガジン 連載アーカイブ

デジタルコピーが破壊する「著作権」という概念

A/C Magazine vol.7 / 2005年 9月

コピー役者が総選挙で訴えるキャッチコピーのコピー

はからずも、この原稿の掲載時期が、総選挙と重なることとなった。郵政法案が衆議院を通過した後、参議院否決での解散はまさに「想定の範囲外」の事態なので、ただの偶然ではあるのだが、とりあえず話の枕として使わせて頂くことにする。政権交代の可能性もはらみ、盛大にメディアが盛り上がっている選挙でありながらも、有権者にとってはどこか「究極の選択」(逆に言うと『どうでもいい選択』)になりそうな気配が漂うのはなぜか。これは候補者の顔ぶれの「没個性化」による面もあろう。いずれの候補者をとってみても、その相貌も主張もキャッチコピーも、どこか誰かのコピー(複製)のような既視感を覚えてしまう。個性派役者のいないドラマは、つまらない。

実は時を同じくして、総務省が「デジタル放送のコピーガード」の規制緩和を検討とのニュースが流れた。これまでの方針では、デジタル放送から受信した番組の録画は、著作権の保護のために「コピーワンス」つまり「一回に限る」というものであったが、これを2006年に向けて「数回」まで緩和するとの方針だ。現在のアナログ放送では、「録画したビデオの一部をダビング」したり「編集」したりすることは、個人利用に限って自由だが、デジタル放送(厳密には「地上」と「BS」に分かれる)では、これが事実上ほぼ「不可」となっており、これがユーザーの不評や苦情の的となっていたのだ。

このニュースを、いわゆるアーティストの皆さんは、どういう思いで聞いたのだろう。デジタル放送を視聴する立場から言えば「大歓迎」という方も多いだろう。「自分が好きで録画した番組を自分のためにコピーをして何が悪い?」という意味で、上述の規制緩和に異を唱える人は、まずいないだろう。しかし、ちょっと待って考えてみて欲しい。これは、これまでの精度の悪い「コピー」の話とはまるで別次元の選択なのだ。デジタル放送、あるいは将来の「IP配信」によるブロードバンド放送においては「コピー」という言葉が、まるで無限の力を持った「魔法」に変わってしまうのだから。

百体そろったミケランジェロ

話を分かりやすくするために、ちょっと大げさな「空想のたとえ話」をする。タイトルは「百体そろったミケランジェロ」。仮に2011年の近未来、フィレンツェに、ミケランジェロ大先生がご存命で活躍中とする。そして、さらに現代物理学がついに「原子レベルでのデジタルコピー技術」を完成していたとする。(少しSFっぽいが、現在すでに『量子のテレポート』が可能であることを考えれば、まあそれほどの大嘘でもない。)すると、ミケランジェロの新作彫刻は、オリジナルの大理石のままで、完璧に「デジタルコピー」されてしまう可能性がある。あるいは、ミケランジェロへの膨大なギャラを支払うために、はじめから「複製販売」を計画している可能性もある。まるで映画のデジタルコピーを世界規模で頒布するように。素晴らしいことである。世界中の(たぶんお金持ちだけだが)沢山の方々が、ミケランジェロの新作の「完全デジタルコピー」を所有できるのだ。

以上のような話って、これは人類の「夢」の実現なのか。あるいはアーティストの「悪夢」なのか。本当にわけのわからない話になりそうだ。常識的に言えば、上記のようなケースでは、たとえば「100体」の複製を制作した後に「オリジナルは破壊する」というのが常道であろう。現在の「版画」の制作と同じで、作家のサインのはいった「準オリジナル」の数を限定するのが「作品の価値を保つ」ための手だてである。しかし、昨今「30年間失われていたビートルズの音源が突然発見」されたりする時代である。誰が一体、ミケランジェロのオリジナルを破壊するというような行為の蛮勇を奮えるというのか?オリジナルは、必ずや誰かの手で秘匿され、どこかへ秘密裏に保存されて、誰かが他日また利益を得ようとたくらむに違いない。

こんな込み入った「空想たとえ話」を持ち出すまでもなく、すでに音楽業界では、構造的にはこれと全く同じ話が、現実に進行中である。アイチューンズ・ミュージックストアがすでに日本上陸、ナップスターやレーベルゲートも参入相次ぐという状況は、まさにデジタルコピーの無限増殖現象の到来である。たまたま現在は「mp3*」並みのクオリティーにとどまってはいるが、本質的に「デジタル」という「劣化しない」フォーマットである以上、これは無限の複製の可能性を意味する。さらにネット社会のデータフォーマットは、猛烈な勢いで「高品質化」にも向かう。「無限の複製」と「高品質」が重なれば、これはもう立派な「百体そろったミケランジェロ」の実現だ。

そういえば著作権というものがあったよね

話がここまでくると当然出てくるのが「では著作権はどうなるの?」という疑問である。映画や音楽ソフト、さらに芸術作品というものは「著作権法」によって「著作権」が守られている、はずだったが。現実的には、このへんは非常に苦しい状況が予想される。ここでは、あまり深入りしない(筆者の実力では、深入りできないというのが事実)が、簡単かつ乱暴にいうと、こうした「デジタルコピー技術の実現」プラス「ネット社会の拡大」という壮大なる現象に関して、「著作権法」は「想定の範囲外である」という態度を決め込んでいるフシがある。今回の選挙で「公職選挙法」が「インターネットによる選挙活動」を「想定外」としているのと同根である。つまり「法」が「現実」に対応できない。2002年の韓国大統領選では、盧武鉉氏がインターネットなどのメディアを原動力に当選した話が有名である。それなのにこれはどうしたことか。

話の深入りついでに「著作権」という概念そのものについても少しだけ考えてみたい。どなたか、できれば経済学者の方に分析して頂きたいのだが、例えば「著作権」を使う代償として支払われる「著作権料」というものは、対価としての性格はどのように位置づけられるのだろうか?いわゆる「労働の対価」としての「報酬」なのだろうか。それとも「ご苦労様」あるいは「心付け」という意味の「謝礼」なのだろうか?とにかくあとでとやかく言わないでねという「契約金」なのか?また、一度出版された本の再版の際の印税や、テレビドラマ再放送の際の出演料の追加(二次利用)もやはり、契約の更新にあたるのか?

またそもそも、その著作権という概念によって得られる「利益」とは一体何のことなのか?ここまでくると、正直なところ無学な筆者には、明らかに手に余るので、無謀な考察はここまでとさせていただく。しかし、無謀ついでに最後に、このたび日経新聞社から「20世紀を生きて」という自伝(日経新聞連載「私の履歴書」再編)が出版された、現代社会学・経済学の大恩人、ピーター・ドラッカー氏の言葉を以下に引用させいただき、幕としたい。「利益」とはそもそも何なのかという、利益至上主義の現代への警鐘の言葉である。

「企業人はよく、一般の人は経済を知らないとこぼす。もっともである。 (中略) しかし、一般の人の無知を訴える企業人自身が、同じ無知という罪を犯している。彼ら自身、利益や利益率について初歩的なことを知らない。 (中略) なぜならば、利益に関する最も基本的な事実は「そのようなものは存在しない」ということだからである。存在するのは、コストだけなのである。」
( P.F.ドラッカー 著 上田惇生 訳 『ネクスト・ソサエティ』より)

さて、結局私もここで、ドラッカー大先生の言葉を、デジタルコピー(手作業だったが)してしまうという事態に陥ってしまった。この件もドラッカー先生に相談すべきなのだろうか。
でもたぶん大丈夫。だってきっと先生はこんな風におっしゃるだろうから。
「先生、著作権料はいかがいたしましょうか?」(筆者)
「いや、そんなものは、始めから存在しない。」(ドラッカー先生)

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